スバルショップ三河安城の最新情報。クラブ・スバリズム特別編「トヨタ・ルマン挑戦の歴史」| 2018年7月7日更新

 
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自動車は、どう進化すべきか。

自動車は、どう進化すべきか。
 
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文責:スバルショップ三河安城 和泉店

お問い合わせ:0566-92-6115

担当:余語

 

1997年:日産が、再び繰り返す悪夢。

1995年以降、必勝体制を敷く日本勢はしばらく現れませんでした。しかし、マクラーレンのワークス・チームに招聘された関谷正徳が、1995年に見事日本人初優勝。この頃、トヨタ、日産、ホンダがGTマシンを持ち込んで挑戦するも、優勝争いに食い込むような活動ではありませんでした。

次に、ルマンにワークスチームを送り込んだのは、日産でした。TWRから提案されたのは、中古のXJR-15というロードゴーイングカーを、日産製エンジンで仕立て直してナンバーを取得する、というものでした。日産は、歴戦の3.5LV8ターボを提供。1997年のルマンに、ワークス体制として3台のR390を持ち込みます。

結末は、最悪でした。R390は、車検でトランクスペースの不備を指摘され、トランスミッションの冷却に問題が生じます。決勝では、予備のミッションまで全てを使い果たす惨状。何を考えたのか、日産は外人ドライバーのマシンからミッションを剥ぎ取ってリタイヤさせると、日本人トリオのマシンに移植するという暴挙。日産は、恥も外聞も捨てたものの、何とか完走を果しただけでした。

 

トヨタ、満を持してルマンに復帰。究極のGTマシン、TS020現る。

1999 Toyota TS020 GT-One

1998年、トヨタが遂に復帰を果たします。WRCに参戦していたトヨタは、ドイツ・ケルンに巨大なファクトリー(現:TMG、当時のTTE)を構えていました。TTEは、かつてプジョー905をデザインしたデ・コルタンツを主任技術者として招聘。コルタンツは、極めて前衛的なTS020をデザインします。

極限まで絞り込まれ、高く持ち上げられたモノコックのお蔭で、フロントのアンダーフロアで協力なダウンフォースを発生。巨大なリヤウイングと低いリヤカウル、巨大なディフューザが、リヤでもさらに強大なダウンフォースを生み出していました。

エンジンは、かつてのグループC用3.5LV8ターボ。特筆すべきは、TS020用のエンジンがすべて在庫品!だったこと。各地に所蔵されていた古いグループCカーからエンジンを外し、分解して徹底リニューアル。最新のエンジンに生まれ変わらせていたのです。

TS020がテスト走行を開始した時、世界のモータースポーツファンは大混乱となります。これは、果たして、本当にGTカーなのか?テストシャシーじゃないのか?TS020は、先進的なGTマシンではなく、「1998年」の新規定グループCに違いありませんでした。

心配とは裏腹に、トヨタはしっかりEUの規定に適合させて、ナンバーを取得。ルマンに、堂々と3台のTS020を持ち込みます。

 

5大ワークスが激突する、GTマシンの競演。優勝候補最右翼のトヨタ、またしても果たせず。

トヨタの対抗馬となったのは、ポルシェ、メルセデス、BMWのドイツ勢。ポルシェは、911GT1-98というこれまたCカーまがいのマシンを2台投入します。メルセデスは「ちゃんとGTカーに見える」CLK-LM98を開発し、2台を投入。BMWは、オープントップの純レーシングカーV12LMを、ウィリアムズで開発。これまた2台での参戦となります。日産は、R390の信頼性を徹底改善。スピードは無いものの、24時間後の上位入賞を目指します。

下馬評は、トヨタ優勢。ところが、決勝は予想外の展開となります。メルセデスとBMWが、序盤で姿を消してしまったのです。これで、レースはトヨタとポルシェの一騎打ち。トヨタは、計画通り圧倒的なスピードでリード。壊れたミッションは、数10分で交換。遅れを再び取り戻すという、荒々しい展開を繰り広げます。しかし、作戦は失敗に終わります。

13.6kmの長いコース故に、ピットまで帰還を果たせなかったのです。優勝は、ポルシェ。1-2フィニッシュでした。

3位は、日産。日本人トリオが、初めてルマンの表彰台(※クラス優勝を除く。)に登りました。

 

空前絶後、ワークスチームの豪華共演。トヨタ、再び2位に終わる。



翌1999年、ルマンは史上空前のワークス対決となります。メルセデスは必勝を期して、ルマン専用のニューマシンCLRを開発。これを3台持ち込みます。BMWは、2台のニューマシンV12LMRとバックアップで2台のV12LMをプライベータで参戦させる強力な体制。ここに加わったのが、アウディでした。アウディはイギリスでGTマシンを、ドイツでオープントップのマシンをそれぞれ開発。2車種計4台を持ち込む気合の入れようでした。

日産は、新規開発のオープントップマシンR391を開発。派手さはないものの、確かな実力を備えていました。ところが、予選で1台がクラッシュし全損。決勝には、1台で挑むことになります。

最強マシンのトヨタTS020は、1999年へ向けて更なる発展を果たしていました。前年に問題となった劣悪な燃費は、アンチラグシステムの改良によって改善を図っていました。徹底したテストを実施して、必勝体制を確立したトヨタは、優勝の最右翼。この年も、3台を投入しています。

ワークス対決の過熱ぶりがもたらした災厄か、決勝を前に大事件が発生します。メルセデスのCLRが、2度の離陸事故を起こし全損。決勝には、2台のみ出走することになったのです。

そして、決勝スタート。序盤から、スプリントさながらの激しいレースとなります。トヨタは1−2体制を確立し、優位にレースを展開していきます。しかし、BMWは良好な燃費を武器に、トヨタ勢に食らいついていきます。

この年のルマンのハイライトは、ルマンが暗くなり始めた頃。メルセデスCLRがTS020の後方で、三度目の離陸!!空中で数回転した後、コース外へ飛んでいく大クラッシュ!幸い、ドライバーに大きな怪我は無かったものの、メルセデスは直ちに撤退を決定。最後の1台を呼び戻すと、シルバーアローが再びルマンに現れることはありませんでした。

これで、レースはトヨタとBMWの一騎打ちの展開。しかし、1スティントを2周多く走れるBMWは、TS020を徐々に追い詰めていきます。そして、深夜。相次いで2台のTS020がクラッシュ。トヨタは一気に劣勢になります。ところが、明け方には17号車のBMWもクラッシュ。双方1台ずつのワークスマシンで雌雄を決することになります。

序盤、ペースを抑えていた日本人トリオの3号車トヨタは、明け方から猛然とペースアップ。計算上では、ゴールまでには15号車BMWをパスできるはずでした。ところが、BMWはプライベータのV12LMにブロックを指示。BMWは、ミュルサンヌを蛇行しながら、露骨にブロック。幾度も先を塞がれた片山右京がダートに飛び出した結果、タイヤを激しくバースト。350km/hから命からがら生還を果たすも、そのロスは致命傷でした。トヨタは、再び2位に甘んじることになります。

優勝したBMWのV12LMRですが、車両規定違反との説があります。当時、オープントップのプロトタイプカーには、運転席と助手席の双方をカバーするロールバーの設置が義務付けられていました。ところが、片側しかロールバーがないV12LMRは、なぜか車検を通過。しかも、優勝まで果たしています。3号車への妨害行為といい、BMWのやり方は褒められたものではないでしょう。

 

兵どもが夢の跡。残ったアウディが、新たなる金字塔を築く。

1999年をもって、ほぼ全てのワークスが活動を停止します。トヨタとBMWは、F1へ移行。日産はルマンどころじゃなくなり、メルセデスは一切を封印。嵐が去ったあと、残ったのはアウディだけでした。

アウディは、チーム・ヨーストと提携。2000年から2008年(途中、ベントレーブランドでの優勝を含む)まで、前人未到の9連勝を達成します。アウディはR8に代えて、2006年にR10を投入。そのエンジンは、巨大な5.5LV12という、ディーゼルターボエンジンでした。総重量200kgに達する超重量級ディーゼルエンジンでも、アウディは勝利を重ねていきます。乗用車よりも静かなエンジン音と、トラックのような排ガスの匂い。アウディは、ルマンに新時代の到来を告げます。

2007年には、同じく5.5LV12ディーゼルでプジョーが復帰。アウディの牙城を崩しに掛かりますが、その鉄壁は厚く、2009年にたった一度優勝したのみでした。その後も、アウディは連勝を重ねていきます。

 

2004年:ルマンに存在する、勝利の方程式。

80〜90年代にかけて、日本勢は「挑戦者」でした。「何かあれば、勝てる。」それでは、ルマンには決して勝つことはできません。ルマンに必要なのは、速さと強さ。水も漏らさぬ、徹底した備え。ルマン制覇には「勝利の方程式」があるのです。

この時代、その方程式を理解していたのは、ポルシェワークスとチーム・ヨーストだけでした。ヨーストは、4度に渡ってワークスポルシェを下して優勝しており、ルマン最強のレーシングチームと呼ばれています。アウディは、そのヨーストと提携することで、勝利の方程式を確立。史上最強のチームを作り上げたのです。

日本のミリオネアである郷和道は、チーム・ゴウというレーシングチームを立ち上げます。1996年、突如全日本GT選手権にワークスマクラーレンを持ち込んで、シリーズを制覇。その後、散発的にルマンを挑戦を行うと、2004年にルマン制覇を目指して最強のチームを作り上げます。

ワークスとして当初の目的を果たしたアウディは、2004年は活動を休止。R8は、プライベータに託されました。郷和道は、このうち1台を入手したのです。資金力に勝るライバルのR8に対抗するため、ヨーストの協力を獲得。勝利の方程式を確立したチーム・ゴウは、完璧なレース運びで見事優勝を果たしたのです。

 

2012年:世界初のハイブリッドマシンで、トヨタが再びルマンに挑む。


2012年、トヨタは再びルマンに戦いを挑みます。これが、今に続くハイブリッドマシンによるルマンプロジェクトです。トヨタは紅白に彩られたプロトタイプマシン「TS030 HYBRID」を発表。ハイブリッド技術の発展とPRを目的に、アウディと共に、新たに始まる世界耐久選手権(WEC)への参戦を開始を発表します。パワートレインとハイブリッドユニットを日本の東富士で、シャシーとエアロダイナミクスはTMGで開発。オペレーションは、フランスのオレカに委託。日・独・仏の連合軍を組織し、アウディに挑みます。

TS030は、革新的なマシンでした。3.4LV8NAエンジンをコアに、助手席に巨大なキャパシタユニットを搭載し、前後に強力なモータを配置。世界初の本格的ハイブリッドマシンとして、モータースポーツの歴史に新たな1ページを刻んだのです。ところが、華々しい発表とは裏腹に、その道程は厳しいものでした。当初は、モータアシストを上手く制御できず、唐突にパワーが炸裂するため、危険を感じたドライバーがテストを拒否。さらに、テスト中に1台がクラッシュして、全損。結局、デビューは第3戦のルマンまでズレ込みます。正に、ぶっつけ本番のデビューとなったのです。

迎えた、デビュー戦のルマン。鮮やかなブルーに彩られたマシンには、大きな変更がありました。WECの規則によって、MGU(モータ・ジェネレータ・ユニット)は前後いずれか1基のみとされたのです。結局、TS030はフロントMGUを撤去。片翼を奪われた感のTS030ですが、予選から十分なスピードを発揮。決勝でも、序盤から積極的にアウディに仕掛けていきます。しかし、1台が大クラッシュを演じて、早くもリタイヤ。もう1台も、スタートから10時間半でエンジントラブルが発生し、リタイヤとなります。

アウディとヨーストという鉄壁の布陣に挑むには、かなりの時間を要するであろうことは明らかでした。それでも、WECの第5戦ブラジルで、アウディを下して初優勝。今までのトヨタとは、違う。そんな期待がありました。

 

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