第47回クラブ・スバリズム開催予告「碓氷峠の記憶と記録〜北陸新幹線と上信越道建設〜」 [2019年12月19日更新]

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文責:スバルショップ三河安城 和泉店

お問い合わせ:0566-92-6115

担当:余語

 

2020年1月19日は、クラブ・スバリズム:碓氷峠の記録、第4弾最終回。

群馬県と長野県の県境にある、碓氷峠。今や、北陸新幹線がたった数分で駆け抜けてしまうこの場所は、かつては国鉄屈指の難所として知られていました。

横川ー軽井沢間11.2km。その高低差は、555mに達します。たった1駅のこの区間のために、すべての列車は専用機関車EF63形2両を連結せねばならず、その風景は国鉄の名物ともなっていました。

上野駅を出発した特急「あさま」は高崎駅を過ぎれば、信越本線に入ります。車窓には、迫りくる山塊が次第にその姿を大きくしていきます。関東平野の縁辺を軽快に駆け上がると、左に見えるは妙義山。ギザギザの稜線と荒々しい岩塊をむき出しにしたその姿は、間近に迫る碓氷峠の厳しさを想像させます。

松井田駅を過ぎた列車が碓氷川を左見つつ切通しの中を進んでいくと、到着するのが横川駅。ここで、列車後部に2両のEF63を連結した列車は、ゆっくりと碓氷峠の急勾配へと歩みを進めていくのでした。。。

最終回は、北陸新幹線建設の裏側と、碓氷バイパス、上信越道の建設工事に迫ります。

 

第1弾「碓氷峠の記憶と記録〜66.7‰に挑んだ技術〜」をダイジェストで。

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[上]建設工事最終盤に差し掛かり、試運転を兼ねた工事用列車が走る碓氷第三橋梁。[下]掘削工事が進む、碓氷第6号隧道。

古事記にさえその名を残す天下の険、碓氷峠。中山道屈指の難所として、有史以来長らくその交通を阻んできたのです。特に、麓側に置かれた碓氷関所は、日本三大関所の一つであり、その通行を厳しく管理していました。

徳川幕府が倒れ、明治政府の世が訪れると、碓氷関所はいち早く廃止されます。日本に、ようやく交通の自由が訪れたのです。

1872年10月14日、新橋横浜間に日本で初めて鉄道が開通。続いて、明治政府は東西両京を結ぶ幹線鉄道を中山道経由に決定。西南戦争に続く戦費に悩みつつも、東西両端から工事に着手します。

ところが、その計画完遂を阻んだのが碓氷峠でした。工事費を改めて精査すると、中山道幹線計画の欠点が露呈。鉄道庁長官井上勝は、一旦は廟議で決した鉄道幹線敷設計画の撤回を決断。新たに東海道線経由に方針を変更すると、一気に工事は進み、東海道線は瞬く間に全線開通に漕ぎ着けます。

結局、中山道線は幹線としての役割を放棄したものの、東京と日本海を結ぶ鉄道幹線へと役割を転じた上で、建設が引き続き推進されることになります。日本初の民間鉄道会社である日本鐵道は、上野高崎間を建設。続いて、官設鉄道が高崎横川間と直江津軽井沢間を建設。残されたのは、碓氷峠。距離にして、たった10kmでした。。。

井上勝は、幾つものルート案の策定を命じるも、現実的なものは一つとしてありませんでした。同じ頃、訪独中の視察団が出会ったのが、ドイツのハルツ山鉄道に導入されたアブト式でした。2条のレールの中央に、ラックレールを敷設。これに車両側のピニオンを噛ませ、車輪の摩擦力に頼らず、登坂する方式です。

鉄道庁は、アブト式採用を決断。新たに作成した3つのルート案から、和美峠ルートを選択するも、詳しく測量するとこれも計画は頓挫。改めて、中尾峠案として建設に着手。500余名の尊い犠牲を伴いつつも、たった1年9ヶ月という工期で、遂に碓氷線が完成します。18の橋梁と26もの隧道(トンネル)により、ようやく碓氷峠は鉄道で結ばれたのです。

ところが、試運転を開始すると問題が噴出。牽引力は予定より不足し故障も多発。碓氷線計画は失敗との風評が立つと、井上勝は衆議院で厳しい追求に晒されることになります。技師たちは試行錯誤を積み重ね、ようやく営業開始に漕ぎ着けるのでした。

 

第2弾は「碓氷峠の記憶と記録〜煤煙の恐怖と電化〜」をダイジェストで。

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[上][下]ともに碓氷鉄道文化むらより。

1893年4月1日、横川軽井沢間開通。ようやく、碓氷峠に鉄道の時代が到来します。これまで馬車鉄道で2時間半を要していた峠の往来は、半分の1時間13分まで短縮されます。

2本のレール中央に敷かれたラックレールと、機関車のピニオンを噛み合わせ、列車は歩くような速度でゆっくり登っていくのです。それでも、狭苦しい馬車に比べれば、その差は歴然。人々は、峠に新たなる時代の到来を実感したのです。

ところが、喜びに湧く乗客たちを待ち受けていたのは、悪魔のような煤煙でした。66.7‰もの急勾配を登坂する蒸気機関車は、当然ながら機関を全力運転します。そのため、猛然と吐き出す煤煙と熱気は凄まじく、閉めている窓の隙間からでも入り込んでくるのです。

そして、何よりも乗客たちを辟易とさせたのが、26ものトンネルでした。乗客たちはトンネルを出れば直ちに窓を開けて換気をし、トンネルに入るや否や急ぎ窓を閉めねばなりませんでした。軽井沢に着く頃には、皆顔は真っ黒。途中駅の熊ノ平では乗車を嫌がる乗客の説得に難儀したと伝えられます。

ただ、客車内にいる乗客たちと違って、乗務員には煤煙と熱気から逃れる術はありません。乗務員がもっとも恐れたのは、「窒息」でした。トンネル内では口を覆い、床に這いつくばり、煤煙をやり過ごすしかありません。それでも、窒息事故は頻発しました。そして、遂に死亡事故が起きてしまいます。

事此処に至り、鉄道庁は電化による電気機関車運転導入を決断します。横川軽井沢間、たった11.2km。そのために、横川には発電所が建設され、日本初の電気機関車が輸入されることになるのです。

ドイツ生まれの10000形電気機関車は、かわいい凸型車体。12両が製造され、乗客を煤煙の恐怖から開放したのです。その後、電気機関車は国内製に切換えられます。ED42形は、アブト式電気機関車の決定版。戦前から戦後にかけて、28両を投入。碓氷線の電気機関車は、すべてED42形に統一されます。峠は、漸く技術的な安定期を迎えます。

ところが、期待のED42形ですら、360tの列車牽引に4両も連結せねばなりませんでした。碓氷峠は、交通の隘路として次第に状況は深刻さを増していくのでした。。。

 

第3弾は「碓氷峠の記憶と記録〜粘着運転化と新幹線建設〜」をダイジェストで。

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[上]碓氷鉄道文化むらより。[下]碓氷鉄道文化むらで現在も体験運転用に動態保存される、EF63形。

戦後、日本経済が落ち着きを見せた頃、碓氷峠は再び交通の隘路と化していました。期待のED42形も輸送力向上は期待したほどでは無く、旺盛な輸送需要の増加を鑑みれば、信越本線が数年内にパンクするのは、火を見るより明らかでした。

特に深刻だったのは、年末年始の旅客需要でした。昭和29年には、客車が乗客の重さに抗しきれず、縦曲線で底付きする事故が発生。列車が横川・軽井沢駅に到着する度に、定員オーバーならば乗客に降りて貰わねばならず、駅ではトラブルが頻発しました。

一方、アブト式軌道の保守には、筆舌に尽くし難い労苦を伴いました。ラックレールは、ピッチを合わせるため、適当に切断する訳にも行かず、たった1本のレール交換でさえも重作業。夜間の見回りは必須で、数日おきに撒砂の除去もせねばなりませんでした。

事此処に至り、関東支社高崎局は「碓氷白書」を国鉄本社に上申。25‰緩勾配線の新規迂回線建設を要求します。一方、東海道新幹線建設に邁進する国鉄本社は、66.7‰勾配のままでの粘着運転化を決断。現在線への腹付線増案と第2期工事での複線化を指示します。

結果的に国鉄は、たった10km・1駅間のために、2種の電気機関車の開発を迫られます。こうして誕生したのが、信越本線全線を担う本務機関車EF62形と、横川軽井沢間の補機仕業を担う補機EF63形です。EF63形は108tもの自重で粘着を確保しつつ、6種ものブレーキで如何なる状況下でも停止及び停止保持が可能なよう、特殊な設計が成されていました。

昭和38年夏の開業に向けて、工事は順調に進捗。昭和37年6月から先行して竣工した区間で、先行試作車2両を使用して、早速試験を開始します。すると、非常ブレーキ作動時に連結器が折損する事故が続発したのです。

国鉄は、綿密な試験を実施した上で、開業延期を迷わず決断。安全が確保されるまで徹底的に試験と改良を実施。安全が確認された80系電車を使用して、2往復のみの試験的な運行を開始します。

そして、昭和38年10月1日。遂に、アブト式運転を終了、碓氷峠は新たな時代を迎えます。続いて、昭和41年7月2日には複線化。信越本線の輸送力は格段に増強されます。

ただ、それでも不十分でした。貨物輸送は日常的に上越線迂回とされ、貨物輸送は昭和59年に廃止に追い込まれています。それは、主要幹線としての役割を放棄したも同然でした。

平成9年9月30日、信越本線横川ー軽井沢間廃止。翌10月1日、信越本線軽井沢ー長野間は第三セクターへ転換、同時に北陸新幹線東京ー長野間開業。長野オリンピック誘致を機会に、急遽全線フル規格で建設が進められた北陸新幹線の開業を迎え、路線維持に多額の資金を要する横川ー軽井沢間は廃止されることとなったのです。

 

最終回、第4弾は「碓氷峠の記憶と記録〜北陸新幹線と上信越道建設〜」。

平成9年10月1日、碓氷峠は新たな時代へと飛躍を遂げます。信越本線横川軽井沢間は、9月30日を以て廃止。長距離旅客輸送は北陸新幹線(当時、長野(行)新幹線)が担い、横川軽井沢間は代行バスに移管されます。

記録上、初めて北陸新幹線が構想されたのは、昭和40年9月24日のタウンミーティングでのこと。「北回り新幹線」と呼ばれるこの構想は、東京大阪間を北陸経由で結ぼう、というものでした。昭和45年5月には全国新幹線鉄道整備法が成立。北陸新幹線は、北海道新幹線、九州新幹線と共に昭和47年7月に公示され、昭和48年度予算にて遂に調査費50億円が計上されます。

ところが、昭和49年の石油危機を受けた政府方針により、国鉄は事業再建を最優先とし、安全確保の投資を除き原則として停止されてしまいます。北陸新幹線建設は、無期限に延期されたのです。

ところが、自民党内ではなし崩し的に建設再開へと話が進んでいきます。昭和56年、国鉄再建を待たずに、自民党四役が調査を進めることを決定。昭和57年には最終ルート案を公表し、国鉄側がこれを了承。政府・自民党は昭和60年度の建設着手を決めてしまうのです。。。

 

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クラブ・スバリズムって、何?

クラブ・スバリズムはスバルを中心に、自動車をもっと深く理解することを目的に設立されました。小生が考えたネタに関する原稿を準備し、役に立つ情報をお客さまに学んでいただこう、というスタイルでした。当初は、エンジンオイルやタイヤ、保険など、真面目な内容を中心に据えていたのですが、第6回を終えた頃には早くもネタ切れ。。。と同時にある結論にたどり着きます。

「役に立つハナシほど、つまらないモノはない。」

そこで、スバルの歴史秘話(トリビアに近いネタ)を中心とするようになっていきます。そんな真面目なネタが続いた後、メンバーのお一人がこう仰ったのです。

「スバルは、そろそろ飽きたよね。」

以後、ネタはスバルとはまったく無関係になっていきます。ポルシェ、トヨタ、フェラーリなど、どんどんスバルから離れていきます。そして、ある時こんな話になったのです。

「そろそろ、クルマももう飽きたね。」

今や、自動車をはるか離れ、トンネルや橋梁、鉄道、航空まで。面白ければナンでもOK。次回ネタは、終了後にメンバーの皆さん全員で話し合って決めるスタイルです。つまり、次々回が何になるかは、まったく未定。<その代わり、とにかく深掘りしていくのが信条。これでもか!と言うほど、深く深く掘り下げていきます。

役に立たないムダな知識ばかりが増えていく、そんなクラブですが、参加をご希望の方はいつでも大歓迎。是非とも、一度ご来店ください。

 

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